
現在のポータブル機器の録音クオリティの向上には功罪がある。
約10年以上前から、気軽にポータブルMDに録音ができるようになったと記憶している。極端な投資や重い機材を運ぶことなく高音質に録音することができるようになったのである。
しかし、それとは裏腹に会場や機材のノイズなども、必要以上にクリアに録音してしまう。
例えば、現実に流れている時間ではギター弾き語りのバラードの演奏中に、隣の人が座りなおしたときの服の擦れる"ガサゴソ音"が気になるという人は多くはないであろう。
寧ろ、微かな音が聞こえる程の静寂にある生の音楽に感動したりさえもする。
だが、鮮明に記録することができる録音機器では、その微かな音をあまりに鮮明に収録できてしまうために、雑音は存在感がありすぎて単なるノイズとして耳障りにしかならないのである。
即ち、機材が使い方を人間に暗黙の内に強く要求するのである。
そのノイズをとりわけ多く含んだしのくにのライブの演奏は、そのノイズの障壁を乗り越えて、曲や詩の元々もっている高いポテンシャルを伝えてきた。
通常、音が悪いと楽曲の良し悪しの判断するのは難しくなるが、突出したものはそんなことには左右されない強さがある。
これが所謂、源泉の良さであり、不快な"ノイズまみれ"という最低なアレンジに左右されない強さがあるということだ。
今回のアルバムのように、一発で「ヨーイ、スタート!」ではなくて、各パートを収録してトラックを構築していく場合、各楽器や声の編集作業で不要な成分を排除したり、適切な処理を重ねて演奏のタイミングを合わせたり質感を上げていくのが定石で、音の精度が増していくほど、要らない雑音やノイズの障壁はさらに高くなっていく。
実際、言われないと分らないようなノイズに、ミュージシャンやエンジニアが耳をそばだて夜警のように監視し、演奏の躍動感は二の次、そっちのけにしている人たちさえもいる。
これを完璧主義というのならば、私個人の意見ではあるが、本末転倒であると思う。総じてそうして構築された音楽は無機質で消化されることなく消費されるばかりで、よくても食卓を飾ることはできるかもしれないが、食えない代物である。
このアルバムを制作する上で、しのくにに対して第一印象で感じた"源泉の良さ"というイメージを、私の手を離れてプレス工場に行ってしまった直後でも、別のものにならない行程を踏めたことには満足している。後述するが、ここにこだわった故にノイズや編集時に気持ち悪さをともなった音、ミスタッチなどもそのままパッケージしている。